モネとかモディリアーニといったような印象派の絵画というものは、誰が描いた絵か一目でわかるようになっている。そのように個性的に描いてあるのである。非常に特徴的である。
そういうふうに描くのが印象派の画家というものであり、それが印象派の画家の表現というものであり、芸術性である。
私は、自分の主催するボードゲーム会というものは、私という人間が主催しているボードゲーム会だと誰が見てもわかるようなボードゲーム会にしたい。したいというより、そうでなければならない。
そうでなければ意味がないのである。でなければ存在の耐えられない軽さだ。
巷によくあるオープンボードゲーム会は、だいたいが、入退室自由、持ち込み自由、遊ばれたゲームをホワイトボードに書いていき、その写真を撮るというもの。ブログも、今日は何人集まりました。こういうゲームで遊びましたみたいな感じで判で押したようなものが多く、オリジナリティがほとんど感じられないものが多い。
もちろんそれは良い悪いではない。巷のオープンボードゲーム会の似たり寄ったりのやり方が悪いというわけでは毛頭ない。それで楽しいゲーム会になっているわけだから、何の問題もないわけなのである。物凄く地域に貢献していると思う。
ただ、惜しむらくは、それでは誰が主催をしても一緒なわけでる。いわばフランチャイズの店みたいなものなのである。独自の表現みたいなものがないのである。
私にとって加古川アグリコラは、表現の場である。
自分の感性を表現する場なのである。ボードゲーム会の主催はクリエイティブかつ三流の芸術性も秘めているものなのである。まぁ芸術性としてはあくまでも三流だが。一流の芸術は文学や絵画、彫刻、伝統芸能の分野でしかありえない。